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浦安マリーナ史 History for Independence

「浦安マリーナの誕生はこうして」

お急ぎでなければ、浦安マリーナ誕生までの生い立ちに耳をかたむけていただき、これまで以上に強い絆と誇りを持ってご利用いただければこんなに嬉しいことはございません。

かれこれ40年近く前のお話になりますが、今日ある浦安マリーナは、海を愛する人達に待たれ、祝福のなかで元気に産声を挙げたわけではありませんでした。 長い時間を要し、いくら話しても通じないいらだたしさ、時には声を荒げ、喧嘩腰の交渉も度々でした。それでも根気よく話し合いはつづきました。

結論を先に申し上げると、屈強なボクサーの壮絶な闘いが終わったとき、双方が互いの健闘を讃えながら握手して、その後は力を合わせて洋々たる平和な海に漕ぎ出したと言えると思います。

きょうは、穏やかな春風の中に浮く船にゆられながら、当時を振り返ってみたいと思います。


昭和50年代、境川沿い数百メートに渡ってヨットやボートが並びはじめました。 それぞれが入会金や係留費を管理者に払っての係留でした。 それが昭和55年に突然に始まった退去命令「不法係留により船を強制撤去します」それは行政からの通達でした。 ここから、言葉には言い尽くせないほどの長くて厳しい戦いがはじまりました。 このとき以降、市および県に提出した嘆願書六通、陳情書にいたっては二十一通にも、提出した関連資料はどれほどになったでしょうか、続いて複数の裁判も。 私たちヨットクラブは、あるときは被告に、またある時は原告にと、先の見えない戦いでした。 新聞、週刊誌、業界紙、テレビも加わり、千葉県浦安市の小さなヨットクラブは、このとき全国に知れわたるほどに有名でした。 そんな中、忘れてならないのが、ヨットクラブの代表である石井 孝さん(故人)の大型ヨットが仮処分を受け3年余もの間、自分の愛艇に乗ることはおろか触ることすらできなかったことでした。 それでも、人というものは不思議ですね。 事態の進展は見ないまでも、行政への入れ替わり立ち替わりの日参は、我々クラブを正しく理解していただく期間としては大いに意義があったと思います。 昨日の敵は今日の友、県の関係者をはじめ、市議や県議の人達と笑顔で冗談を交わす日も増えてゆきました。 いつしか我々は営利団体ではない、決して争いを好まず、海を愛し、強い絆で結ばれた仲間なのです。 こうした努力が理解されはじめ、それぞれの立場上、多少の食い違いはあっても、少しずつ河川行政に変化が見られはじめました。

その一方で我々は、地域との交流にも力をいれました。 広く市民参加の「親と子のヨット教室」などへの呼びかけには、子ども中心に本当に沢山の人が集まりました。 さらに「係留地周辺での定期的な清掃」活動も地域住民の理解を深め、マスコミに取り上げられる機会も増えました。


 
・市民参加の「親と子のヨット教室」お子さんがいっぱい

 
・境川係留場(河川敷)全員参加で大掃除





「この日が、浦安マリーナ誕生の最初の一歩でした」

こうした流れが行政の背中を押すことになったか、昭和58年の夏、県から嬉しい知らせ、係留地の臨時移動許可の知らせがきました。 条件として「周辺海域から泊地に適した場所を自分たちで探すように」小躍りしたのを覚えています。 さっそく連日ボートを走らせ、浦安、市川、行徳、船橋、を探索し、係留可能な場所5ヶ所を海図に記して報告しました。 県でも交渉に時間がかかったのでしょうか、かなりの時間が経った頃ようやく呼び出しがかかり、 ここは無理だろうな、と思っていた浦安市千鳥地先、つまり鉄鋼団地の入り江が指定されました。

現在、皆さんが日々ヨット、ボートを楽しまれている浦安マリーナの場所です。この時が浦安マリーナ誕生の、記念すべき最初の一歩だったと言えます。 移動条件の打ち合わせの中で、私たち船を係留するための杭打ち、ポンツー設置の許可は得たものの、 台風対策は大丈夫だろうか、水深が浅い、などの不安はありましたが、まずは泊地取得権が第一との考えで交渉を進めました。 ここに至るまでの泊地問題で費やした費用もさることながら、そこにかかわった人々の費やした時間は尋常なものではなかったと思います。 それでも、だれ一人落伍することなく一人ひとりの力が今日を築いたのだと喜びに浸ったのを思い出します。

こうして、浦安セーリングクラブに、浦安ヨットクラブ、浦安オーシャンクラブも加わり、3クラブの力を結束して写真のような、 暫定ながら自分たちのマリーナが出来上がり、昭和59年5月27日、夢であったヨットハーバーの落成式を迎えることができました。


 
・当時は堤防のすぐ後ろには金網が張られており、その後は草っ原(現在の艇置き場)でした。

 
・「待望の浦安ヨットハーバー落成式」             ・「神妙に安全祈願」


・「開港パーティで」

マリーナに出入りするための鍵が付きました。 誇らしげに人が行き交い、海では船が行き交い、しばしの間それは楽しい時間が流れました。 ただ、唯一の心配であった強い台風が来て、大破した船や流された船の被害もありましたが、苦境を乗り越えてやっと手に入れたマリーナは居心地のいい母港でした。

しかし、喜んでいられる時期はすぐに終わりました。 3年を満たない昭和62年2月・・・。 「浦安マリーナの管理は、千葉県から(財)千葉県都市公社に委託」 その時のお知らせは次のようなものでした。


・浦安マリーナは現在利用している水域に加え後背地を含めた区域に広げる
・事業計画、着工から7ヶ月。總面積約28.000平米。収容隻数約320隻。
       施設、陸置き場、管理棟、駐車場等。
    ボートヤード、上架施設、係留施設、フォークリフト、
       サービス施設、安全施設など。


これらは、皆さんが現在利用されている浦安マリーナの諸々の施設と大きく変わっていないと思います。
この他、・年間保管料、・保証金、・船台、・燃料なども提示されましたが、とりわけ保証金、年間の利用料金価格は常識を逸していました。 開港に向けて掛かる巨額の諸費用を短期間で償却したいという思いもあったでしょう。 対して私たちクラブは、県の承諾を得て、自分たちの力で作りあげたマリーナという思いもあり、これを考慮しない一方的な取り決めは承諾できませんでした。

はじめから大きくかけ離れた、双方の言い分を埋めることに大変な時間を要しました。 それでも、誠意を持って根気よく話し合いを続けた結果、「暫定料金制度」を導入することで決着しました。 これにより1年近くストップしていた千葉県初の公営マリーナの建設工事が再開されました。 その後はすべてが順調で、管理者としての千葉県都市公社と利用者である我々クラブ員が、本当に笑顔で前に進み始めたとき、時期はいつの間にか平成2年になっていました。

なにか問題が生じればいつも根気よく話し合いをする、それが一番の早道だということを勉強しました。 それからは、いつも感謝しながらのお付き合いがずっと続きました。 この流れが浦安マリーナの変わらない文化になっていることを、今さらのように誇らしく思います。 皆さんありがとう。


なんだが“きな臭い”話で長くなりましたが、月日の流れは速いもので、いつの間にか浦安周辺は大きく変わり始めていました。 その筆頭は、なんといっても昭和58年にオープンしたディズニーランドでした。 その後、京葉線が開通しディズニーランドの玄関口に舞浜駅が誕生しました。 駅前周辺の華やかさは別の世界を見るような変わりようでした。 夏の夜、艇のデッキにころがり、夜空に咲く打ち上げ花火を眺めるのは最高ですよ。どうぞ、遊びにきてください。

おわり。



寄贈原稿より